空襲の記録

保戸島空襲

戦後70年も過ぎ、戦後生まれの私には当事者としての認識はない、だが私の家族には戦争 の悲惨な悪夢が消えない。
親や親戚ならびに保戸島の地域の人から聞いた話を語り継ぐことをしなければ、悲惨な戦争で死ん でいった人々が浮かばれない、ましては再び戦争の誤った道に向かうかもしれない。語り継ぐには有効な方法を見いだせない でいる私ですが、HPにおいて多くの人にアピール出来ればと願っております。

語り継ぐ会 伊東俊義

 

保戸島小学校爆撃の記録・1945年(昭和20年)7月25日

豊後水道に浮ぶ保戸島小学校(当時国民学校)で、学童124人を含む127人が死亡、75人が負傷すると言う信じられない惨劇が起ったのは7月25日朝の事でした。
その日の朝は雲ひとつないきれいな空だった。子供たちはいつものように8時前に皆元気よく登校していた。突然の警戒警報発今に無言で皆帰宅した。しばらくして、空襲警報解除の知らせに子供たちはまた登校していった。そして午前10時頃に、かすかな爆音、銀色のB29が学校上空を北上するのが見えたが危険無しと認めて授業は1時限目が始まった。

次第に遠ざかり行く爆音に「ホット」した時、突然「空襲」と言う村人の叫び、同時に金属性の耳をつんざく轟音と「ドカーン」と地響きのする爆発音があった。
学校の北西側の角の2階建て校舎を直撃した爆発音であった。それは航空母艦ランドルフから飛び立った四機編隊のグラマン機が投下した爆弾4発の内1発が学校を直撃した惨事だった。
時刻は午前10時16分頃であった。此の時の死傷者は、死者教師2、学童124、その他1、重傷者教師1学童9、軽傷者教師5学童60であった。これは平和な島に決して癒える事の無い戦争の悲しい痛恨事であった。
其の後、殉難学童の父母有志に依り慰霊碑ゐ淀:立され、再び戦争の悲惨を繰返さない様語り継がれ供養を続けている。