紺碧

演劇集団P-natuと演劇「紺碧」

授業中の小学校が爆撃に.... 《 保戸島空襲 》 1945年7月25日

津久見湾内の突端に、切れ切れに浮かぶ静かな島、保戸島は、古くから遠洋マグロの拠点地でした。当時は、この山頂に海軍防備隊の監視所、島の北端には、女子挺身隊に

よる監視礁もありました。その小学校(当時国民学校)で児童124人、女教師2人、先生の子ども1人、合わせて127人が死亡、重軽傷75人、学童数の大半を一挙に殺

傷されたという、信じられぬ惨劇が起こったのは、7月25日の朝だったのです。

その日保戸島小学校では、午前8時30分から朝礼が始まりました。全校児童460人が入江の校庭に集まって、先生方のお話や、注意を聞きました。そして児童は、列を

正して各教室にはいっていったのです。

ところがその朝は家に用事があったのか、または虫が知らせたというのが10人ぐらいの父母が来ていて、朝礼が終わると子どもを引き取って帰ったといわれています。

午前9時ごろ、かすかな爆音のB29・1機が上空を北上するのが見えましたが、危険なしと認めて、授業はそのまま続けられました。しかし第に遠ざかっていく爆音に「ホ

ッ」とする間もなく、逆方向の島の北端・加茂神社上空から、海沿いに、低空で飛来したグラマンによって悲劇が生まれたのでした。

突然、「空襲!」と村人の叫び。同時に、耳をつんざく金属性の爆音と、ドカンという地響き。学校の北西側、角の2階建て校舎2教室を打ち貫いて爆弾が炸裂しました。

この爆弾を投下したのは、3機編隊のグラマンで、投下爆弾3発、そのうち1発が校舎、1発は校舎裏の山手、もう1発は校舎西側の海中に命中、時刻は9時20分ごろでした。

直撃で、2階5年2組の教室と階下の1年生教室は、木っ端みじんに吹き飛ばされ、授業中の高橋ミヨ子先生と児童54人が即死。階下の1年生56人と林シズ子先生、同

先生の次男(当時5歳)が校舎の下敷や爆風に吹きちぎられ、跡形もなくなったのでした。

< なぜ、この小さな島が空襲されたのでしょう? >

当時、保戸島で一番高い遠見山には、海軍の秘密兵舎があり要塞になっていました。その役目は、保戸島から豊後水道を通って、四国の宇和島まで、海底電線(ケーブル)

を通して、その上を潜水艦が通ったら電波でキャッチする施設の基地でした。また、特攻隊の通路にもあたっていました。

そのため、戦時中作られた日本地図には、どこにも保戸島はのっていませんでした。

ところが、終戦直前、米軍が基地のことをキャッチして、潜水艦攻撃するには、この島をたたかねばと思ったんでしょう。それで、この島がねらわれたのです。

しかし、島だから上から見たらどれが基地かわからない。たまたま小学校の校舎が一番大きかったので、秘密基地と思い空襲されたのでしょう。

授業中に空襲され、しかも、こんなにたくさんの幼気な児童たちが被害にあった例は、世界のどこにもありません。

お寺には、その後発掘され、ちりじりになったために身元の確認できなかった無縁仏の骨を集めて作られたお地蔵さんが祀られています。

なんとかしてこの悲惨な出来事を伝える活動をしなければと思うのですが、戦後生まれの私には直接伝えられる資料はありません。色々な方と出会い、なんとか資料らしきも

のを集めるのがやっとでした。それでも語り部になることは無理なような気がしたのです。

話や資料だけでなく、もっと心に伝える方法として思いついたのが演劇による保戸島空襲の公演でした。