伊東フミ子の記録

伊東フミ子の記録

(1985年夏の毎日新聞より抜粋掲載させていただきました。)

傷引きずや人生35回もの手術繰り返す

爆弾の破片が右股(こ)関節を直撃した伊東フミ子(津久見市保戸島、当時保戸島村高等科一年)は空襲からこれまでに、三十五回もの手術を繰り返してきた。
けがによる負荷で昨年九月にも左ヒザ軟骨を手術したばかり。四十年間、青春もなく文字通り。戦争の傷を引きずる″人生である。
伊東は自力で校舎のガレキの下から脱出した。島にいた医師のもとに担架で運ばれたが、赤チンだけでは手当ての仕様がない。ひとまず帰宅、だが「血がジャプジ″ブ止まらず、母が体をふくと飛び上がるほど痛かった」
療養を続けたが、発熱の上に一週間後からはウミが止まらくなった。
佐伯の海軍病院でも治療は無理。
国立別府病院へ入院できたのは1ヵ月も後たった。
診断は骨髄炎。医師は傷口を見るや「破片がのぞいとる」と取り除いた。十円玉より少し大きかった。 手術を繰り返したが傷口はなかなかふさがらない。

「島の空気を吸った方がよかろう」との父の考えで、二十三年、通院に切り替えた。ところが傷がぼうこに届き、しりの三ヵ所から尿がもれ出す一方、ぼうこう炎を併発。三十五年、別府市内の別の病院に入院、三度手術を行ったが、ぼうこう炎は腎(じん)臓炎を誘い四十年、左腎を摘出。ヽ 七年後、やっと傷口はふさがったが、軟骨やぼうこうは今も痛み、松葉ヅエなしではほとんど歩けない。 もし空襲がなかったら、すぐに適切な治療を受けていたら……
「何もかんも手遅れ」と伊東は吐き捨てるように言う。「帰島は年一回。楽しみはテレビと冷水浴くらい。
両親と兄は逝(い)つた。津久見と島に妹が一人ずついるが、甘えられん」。常々「国家補償が欲しい」と口にする伊東。だが「本当は足を元通りにして」と憤る。 今月十一日、大分文化会館で、伊東は負傷後初めて人前で自らの体験を語った。ハンカチで目頭をぬぐいながら「生きていてよかつたことは何もなかった」参加者も目を赤くする。しかし、病院に帰れば、伊東はまた一人である。(敬称略)

演劇集団p-natuより

どんな一生だったのだろう。戦争の生き証人、被害者・・・言葉は簡単でうすっぺらい。少女のように愛らしく、。爛漫な笑顔をもつ女性だった。こちらが何を聞きたがっているか、どう感じているかを察するかのように、先回りして助け舟を出してくれるような、繊細で聡明な女性だった。                   ゛
一昨年、私は自分の劇作のために彼女をはじめて訪ねた。戦時下、米軍によってなされた津久見市保戸島の小学校空
爆。その事実を題材にした作品「紺碧。」 その頃私は「紺碧。」の上演にあたって関係者を訪ね歩いていた。その中で彼女に出会った。快く訪問を許してくれた彼女は、聞き下手な私たちの気持ちを先回りするかのように、自らいろいろ話してくださった。その寛容さに深く心を打たれた。今も毎週通院が欠かせないことを嘆き、もう帰ることのできなくなってしまった保戸島を懐かしんでおられた。私たちが持参した島の写真になつかしそうに見入っておられた。(余談だがその写真は当時保戸島で小学校の先生をされていた得丸正信氏(故人)がまとめておられたもので、公演にあたってお訪ねした奥様と息子さん(現宮河内幼稚園園長)からお借りしたものだ) 。
施設を住まいとしておられたその女性は、肉ではなくおからが食べたい、私はおからが大好きと言ってちょっとはにかんだような、いたずらっぽい笑顔を見せた。昔食べていたものがたまらなく恋しいのだそうだ。
あの空襲によって奪われたものは計り知れない。
公演を終えて2度目に訪ねたとき、彼女は、私たちの顔を見つけ、パアツと花が開くように笑ってくれた。その笑
顔にどれほど救われたことか。訪問にあたって緊張する心を、やさしく包む、それでいて無垢な少女のような笑顔だ
った。あの日、彼女は、施設に週に一度訪ねてくる訪問販売から買ってきたばかりのみかんを私たちの手に握らせて
くれた。それなのに、私ときたら緊張して、その場でその皮亀剥くことが出来ず、そのまま持ち帰ってしまった。ず
っと後悔していた。あの日あの場で食べなかったこと。「美味しいです」と、くったくのない笑顔を彼女に向けなか
ったこと。きっと彼女はそれを待っていたのに。そして確かにあのみかんは甘かったのに。きっとその距離感を聡明
な彼女は感じたに違いない。そう思って悔やんだ。 もっと早く、三たび彼女を訪ねればよかった。
もう一度、会いたかった。

伊東フミ子さん。2014年4月12日没。享年八十二歳。
あの戦争がなければ、彼女の人生はどんなものだっただろう。少なくとも不自由な身体で、ひとり施設で暮らすこ
とはなかっただろう。そう思って私の胸は苦しくなる。「おからが好き」秘密を打ち明けるように教えてくれた。今
はもう帰ることのかなわなくなったふるさと保戸島の風景をなつかしそうに語るあの表情。理不尽さが胸をつく。な
ぜ私は彼女を訪ねたのか、何もできないくせに。自分の身勝手を嫌悪した。そういうすべてをきっと彼女はわかって
いたのだろう。そういう寛容さとあきらめが、フミ子さんにはあったように思う。
1945年7月25日。津久見市沖合に浮かぶ保戸島は米軍の爆撃を受けた。小学校がその標的となり、12ワ名の児童およ
び教員が犠牲となった。そのとき一命を取り留めた伊東フミ子さんは、その際受けた傷がもとでその後の人生を繰り
返す手術、入退院、通院と、翻弄され尽くした。「生きててよかったと思ったことは一度もない」彼女はきっぱりと
そう口にした。ほんのりと汗ばむ季節。光さす施設の一室で、その部屋は几帳面な彼女の人柄そのままにきれいに筈
頓されていて、そんな部屋で、小花柄のワンピースを着た美しい笑顔の女性のbからその言葉が漏れたとき、時が止
まったようなそんな感覚を、私は覚えた。
2度目の訪問で、私たちの持ち込んだささやかなお土産はおから料理だった。彼女は食べてくれただろうか?
演劇集団p-natu
佐倉吹雪