保戸島

保戸島は津久見市より海路14粁、津久む考と佐伯湾を分かつ四浦半島の先端から僅かに1OOメートルの水違(元ノ問)で隔てられた小島で、島の形容は束呑1.2粁、南北1.6粁余周囲約4粁、面積0.86平方粁で標高184mの遠見山を頂点とする急峻な傾斜地は過去日本の離島が辿つた貧しさをそのままに、段々畑は進なり耕して天に至つている。

北及び南東側の海岸線は絶壁となり海上に浮ぶ高甲岩を初めとする小岸礁郡は豊後水道の潮流に洗われ、大潮時に於る激流は渦汐となり、永年に亙る怒涛に浸蝕された三郡の高甲岩は眺望に価いする奇観を形造つている。
集落は治側谷問の中腹迄続き、戦後離島振興法の発効と遠洋漁業の復興に依り急速な発展を遂げ離島には珍らしい過密状態となり、漁港岸壁を初め、コンクリートで囲まれて密集した集落は、さながら治欧の孤島を思わせる景観を呈しているo
気候は海洋性のため温和で冬季でも平均7℃前後で霜が降ることはほとんど無い明治36年の記録によると、世帯数323世帯のうち、農業従事者が390人であるから全ての世帯が甘藷を主として米や走も作付けしていたものと思われる。昭和32年には米の作付けは無く、甘藷と麦が主体となつている。

しかし、昭和42年頃から大部分の耕作地は放棄され、集落に近接した耕地だけが僅かに耕作されるのみになった。
大正9年12月に保戸島を訪れた柳田國男は、(海南小記)の中で、全体に平地はちっともない島である。見上げるような傾料地に同じような家が境も不分明に建て続けていると記している。
また、部屋の呼称にしても食事をする茶の問をアラケ、その隣の夫婦の寝室を奥居と呼んでいたが、現代ではかなりすたれてきている。
そして最上級の部屋は、座敷と呼ばれ仏壇と床の問が設けられ客間としての機能も兼ねる。

人口の推移を国勢調査などで見ると、1810年の保戸島の記録では92世帯、男341人・女278人の計619人であり、明治36年には323世帯、男975人・
女861人の1,786人で、大正9年には367世帯、男1,184人・女1,189人の2,363人であった。
戦後は3000人前後で推移して来たが平成2年の国勢調査では751世帯、男1269人・女1180人の2449人で世帯数は増加しているが人口は減少傾向にある。
これは少子化傾向と核家族化が進み住宅地に余裕が無いため、津久見市内や臼杵市に転入していることにある。

2.保戸島のなりたち

其の昔、12代景行天皇が熊蘇征討のみぎり此の地に舟を倒留どめになり美しい海藻を御覧になり、其の美しい海の藻を取れと勅し、兵は勅に応じて海藻を取って差し上げると天皇は舟を御進めになりた(笈釈風土記)此の麗わしい海藻(はつめ)の故事から此の海峡を最勝海勝門(はつめのと)と言い、後に最門と言い穂門と書く様になりました。
当時は津久見~津久見浦~四浦~上浦~大入島を含めて穂門郷と呼ばれ何時の間にか呼限が狭められて保戸島のみが其の名を留どめている(風土記、豊後国史)
文化7年(1810)2月29日、幕府の測量巡航士(伊能忠敬)来航、西泊人家4軒を経て保戸崎に至る。人家多数有り一周を測す。28丁7間2寸、風波に依り見切り、5丁ばかり船寄せず上陸を得ず、一同8ツ頃に津久剋甫に帰宿す。
(豊後国史)
保戸島に何時頃から人が住み着いたかは不明であるが、日本の離島に人が住み着いた共通の事情として次の事が挙げられる。
①冲央で戦いに敗れた一族が政治的な弾圧を逃れて島に移り住む
②宗教的な弾圧(禁教令等)に抗し得ず自由を求めて住み着く
③本土や他の島から季節労働に来たり遭難等に依り漂着して住み着く

保戸島に祭神(加茂神社)が勧請されて創立したのが天文4年(1535)であることから、それ以前に島に人が住み着き集落が出来ていた事は容易に想像される。

(室町中期頃と思われるも現存記録無い当時中央に於て闘い敗れた一族が政治的な弾圧を逃れて南下し島に移り住んだ事が考えられる。

そして当時の名残りとして島の部落に遣る。 上小路・西小路・浜小路等の地名や島に伝わる慣習及び方言の数々に再び帰ることが無いであろう遠い故郷(京)を偲ぶよすがとした一端をかがい知ることが出来る。

保戸島は暴藩時代は臼杵藩に所属していたが関ヶ原戦後の慶長6年(1601)に佐伯に転封された毛利氏は着任直後に臼杵の稲葉氏と津久見の1部(津久見の中心地の警固屋)を交換した。佐伯領の警固屋を手放し、臼杵藩から保戸島を入手したことは海の開発ど海上交通の拠点として保戸島が重要と考えたからと思われる。

以来佐伯藩の所領として維新を迎えた。
明治4年廃藩地県の際、第4大区第17小区となり用務所の管轄に属した。
明治22年4月1日、町村制実施に際し四保戸村となる。
明治25年10月四保戸村を分離して保戸島村と改称、
次いで昭和26年4月1日、津久見町、日代村、四浦村ともに合併し津久見市大字保戸島となる。

3.保戸島の史蹟

村社加茂神社は島の守護神として天文4年(1535)5月吉日(手水鉢に現存記載あり)に京都の上加茂神社(現在の京都市上京区)より別雷命が遷移勧請された。
古米より夏の大祭には御旅所の御興。綱切カグラ、夫婦面カグラ、湯立カグラが盛大に催される法照寺真宗西本願寺派山号浄光山
天正19年(1591)肥後の国、西惟に依り創立
弘化4年(1847)9月焼失
安政元年(1854)4月厳愁生再建
昭和12年8月吉日本堂及び庫裡新築
現在、第17世住職に至る  (豊後国史御領分寺社記)
海徳寺浄土宗智恩院末寺
慶長10年(1605)佐賀関称念寺円誉に依り創立
山号竜豊山
文政8年(1825)13世寛世再建
現在第27世住職に至る(豊後国史御領分寺社言己)

御大師様
真言宗始祖弘法大師

創立明治13年3月吉日  松寄大十郎・竹田理吉両名を発起人として創立
由緒山内八十体は霊場より土壌を遷移して建立され毎年旧3月の例大祭には山内接待を行い盛大に施祭されている。

石鉄神社
祭神石鉄(海上守護押出に勧請)
創立安永3年(1774)甲午5月吉日
社殿堅3尺横3尺敷地2合5尺
由緒寄付勧進帳に依り安永3年に押上頂上に海上安全を祈願して勧請され戦前は山武士や行者の参詣に限られていたが、戦後、島の信者に依り道が造られ年毎に参拝者ゐ増加している。
明治12年7月に社殿再建
昭和53年3月に社殿及大鳥居を再建

中島の観音様
元禄4年5月(1691)建立
「由緒」保戸島と四浦半島の中島瀬戸を見下す高台に建立され、古来より島の周辺で遭難した殉難者の慰霊と海上安全を祈願して此の地に祭られ、島民の信仰が厚く、漁港の完成を契機として朝夕の参拝が旺んである。

御大師様井戸
真言宗草庵の北側、岩盤を堀削して造成された古い井戸で湧出る岩清水は島で最も良質の水で、御大師様水と呼称されて、水道が開設される迄は、島民の飲料水は全て此の井戸で補給されていた。

御虎御前様
古老のロ伝に依ると、鎌倉初期、曽我兄弟の弟五郎時宗の側室、御虎御前は亡き五郎時宗を弔う為、諸国慰霊の行却中に計らずも中島の裏海岸に漂着した遺体の人品(体)家紋及び年代から御虎御前と判じ、保戸島在住の佐藤某氏は遣体を丁重に弔い、当時厄病除けの祭神とした。
そして漂着の命日(御盆の17日)に毎年供養を続けている。戦後に波打際から現在地に移し安置した。

カラン(伽藍)自蔵尊
天文中期頃(記録無し古老の口伝に依る)に島の裏側瀬の浜に「カラン(堂宇)」が建立され僧侶や行者達の修練場として島民の信仰を集めていたが天正年間の豊後の守護職大友氏と薩摩の島津氏との興亡の戦乱で彼我落武者に依り僧侶行者は追放されて彼我落武者の隠れ家となり堂宇は荒廃して焼失した。
信仰厚い島民は昔を偲ぶよすがにと、其の跡地に自蔵尊を安置して御盆の16日に集落の広場に移して供養を続けている「カラン」様である。